| 第28回木村昌福(まさとみ)〈第一水雷戦隊司令官41期中将〉 一 ![]() 木村昌福は明治二十四年十二月六日、静岡市紺屋町で生まれた。 父近藤壮吉は弁護士で、昌福は生まれて間もなく母方の祖母の養子となり、木村を名乗った。兄弟三人が兵学校へ進んだ珍しい家庭である。 長兄憲治(40期)は砲術学校高等科を経て砲術に進み、砲煩兵器を専攻した。海軍工廠の検査官となり、呉や佐世保の軍需部で管理職をつとめ、艦政本部や航空本部の監督官を歴任するというように、もっぱら技術畑で活躍したが、昭和十五年、五十一歳で病没した。 弟一声(50期)は航海畑を歩み、軽巡「那珂」副長として開戦を迎え、昭和十七年六月に第二水雷戦隊旗艦「神通」の副長となった。 米軍のガダルカナル反攻いらい、主としてトラックを基地としてソロモン方面で活躍していたが、昭和十八年七月十二日に起こったコロンバンガラ島沖夜戦で「神通」は艦橋に敵弾をうけ、一瞬のうちに、一声中佐は司令官伊崎俊二少将(42期)、艦長佐藤寅次郎大佐(43期)とともに戦死した。 木村は任官以来、小艦艇のみに勤務し、もっぱら実戦部隊の指揮官たるべく腕をみがいた。いわゆる車曳き″である。 木村は身長が百八十センチもある大兵で、静岡中学校以来、柔道の猛者としてならしてきた。 非常に大らかな性格で細かいことにくよくよせず、私心や欲というものがまったくなく、したがって終生、上の者からも下の者からも敬愛された。 兵学校の卒業成績もあまり芳しくないし、海軍大学校へも行かずに中将になった珍しい人である。 兵学校の一期下に大西新蔵(のち中将)がいた。大西は兵学校へ首席で入り、卒業時は三番というすばらしい秀才であり、エリートコースを歩んだ人だが、彼は木村の人柄を終生畏敬していた。 大尉時代に同じ下宿で起居をともにし、また第一線に出てはソロモンでともに戦い、さらに終戦前に兵学校でともに監事長をしていて、木村の性格を知悉していたのである。 茫洋としてとらえどころのない人物の大きさは、しばしば米内光政と比肩されるが、面白いことに、終戦で海軍を解体するときに、彼を推挙して中将に進級させたのは時の海軍大臣米内光政であった。 大正十二年九月一日、関東一円を大地震が襲った。 木村は大尉で、そのころ水雷艇「鴎」の艇長であった。 ちょうどその日は土曜日で、士官の多くは外出中であったが、木村はただちに引き返して待機した。 鉄道、道路は破壊され、通信も途絶したとき、東京ー横須賀間を百五十トンの「鴎」が何度も往復して、高官や物資を運んでくれるのが唯一の交通手段となった。 地震による浮遊物の一面にひろがる海を、芝浦岸壁に横付けするのは容易ではなかったが、その操船のみごとさに、海軍の高官たちは感嘆の声をあげた。 「艇長は誰だ、みごとなものだ」と。 昭和十七年四月、インド東沿岸に進出した馬来部隊のうち、北方を担当する北方部隊(「熊野」「鈴谷」「白雲」)の「鈴谷」艦長として木村は参戦する。 その頃はまだ無防備な米・英・蘭のタンカー、商船、貨物船が沢山往きかっていた。 近づいて砲撃すると、乗組員たちはあわててボートを降ろして逃げ出す。 「鈴谷」の機銃指揮官が射撃を命じようとした途端、艦橋から身を乗り出した木村艦長は大声で叫んだ。 「撃っちゃあいかん、いかんぞおー」 木村は、乗組員がボートで逃げるのを見届けてから船を砲撃して沈めた。戦意を喪失した者や非戦闘員に対して銃を向けることは絶対に許さなかった。 ちなみにこのとき、北方部隊だけで一日に八隻、約六万六千トンを沈めている。 二 昭和十七年六月五日、ミッドウェー作戦が行なわれた。 第七戦隊(栗田健男司令官)の「熊野」「鈴谷」「三隈」「最上」は、第八駆逐隊(「荒潮」「朝潮」)を随伴し、上陸部隊を搭載した十二隻の輸送船(特別陸戦隊二千五百名、基地設営隊三千五百名、それに陸軍一木支隊二千名)を護衛してミッドウェー占領に向かった。 ところが、日本側は主力空母四隻を一挙に喪失したため、連合艦隊司令部は、急遽、無疵の水上部隊に命じて、夜戦によって敵機動部隊を撃滅せんとした。 それに応じて第七戦隊には、「今夜、ミッドウェーの陸上施設を砲撃破壊すべし」との下命があった。 第七戦隊は三十五ノットの全速で直進した。そのため二隻の駆逐艦はついていけず、脱落するほどである。 しかし、ミッドウェーの五十浬手前まで来たとき、連合艦隊司令部から、夜戦は断念する旨の連絡があり、七戦隊は引き返すことになった。 約二時間ほど走ったとき、突然、前方に敵潜を発見、旗艦「熊野」はただちに左四十五度に回頭同時に後続艦に信号を発した。 ところが、回頭したところで、さらにもう一隻の敵潜を発見し、「熊野」はもう一度、左四十五度回頭の信号を発し、結局、九十度回頭した。 この、つづいて二度の信号が後続艦に混乱を招き、ある艦は二度目の信号は再確認のためのものと思い、ある艦は二度目の信号を見落としたりした。それによって、ついに三番艦「三隈」の左舷中央に四番艦「最上」の艦首が突っ込んだ。 衝突を起こした地点は、ミッドウェーから約百浬西方であり、あと二時間ほどで日出となる。 敵潜や飛行機からは、すでにこちらの情況はつつ抜けなはずである。栗田司令官は、「三隈」は航行にさして支障がないものと判断し、「最上」を護衛して避退するよう指示し、自身は二番艦「鈴谷」に、「われにつづけ」と信号して、「三隈」「最上」を置きざりにして走り去った。 この二艦を置きざりにした栗田司令官の処置がのちに問題となり、栗田は非難の声をあびることになった。 しかし、現場に止まれば第七戦隊全部が、夜明けとともに当然来襲するであろう敵機の餌食になることは目に見えている。しかも前方には、護るべき八千名を載せた十二隻の船団がいる。これも同時に全滅されるだろう。 この際、場合によっては二艦を犠牲にしても、という考えがあったとしても、それは非難さるべきではないと思われる。 それはともかく、「熊野」は、「われにつづけ」といって全速で走って行く。 そのとき、突然、「鈴谷」の艦橋で木村昌福艦長が大声で命令した。 「われ機械故障と旗艦に信号っ」 同時に速度を落とさせる。別に機械は、どこも故障などしていない。 たちまち旗艦「熊野」は視界から遠ざかっていった。 木村艦長は「鈴谷」を反転させ、やがて「三隈」の横に停止した。そして「三隈」の乗員を救助せよ、と命令した。航海長が、「空襲が間もなくあります。この際「三隈」は見捨てましょう」と進言しても、木村はそれを無視し、 「ただちに『三隈』を救助せよっ」と大声で命じる。 救援ランチが「三隈」に横付けされ、「三隈」艦長崎山釈夫大佐(42期、のち少将)が担架で降ろされるのをはじめ、数百名の救助作業が行なわれた。 崎山艦長は弾片を顎下にうけ、ほとんど人事不省の状態で、収容後、息を引きとった。 間もなく救助作業は終了した。 「三隈」の副長高島秀夫中佐(47期、のち大佐)は、艦長なきあと自分は艦と運命をともにするといって艦橋をはなれず、ハッチの破壊で機関室に閉じこめられた乗員とともに、その後の敵機攻撃によって沈められた。 一説によると、「三隈」が敵の手におちるのを恐れた木村が、救助作業終了後、魚雷をはなって沈めたともいう。 このあと「鈴谷」は、全速で「熊野」のあとを追った。遭難艦の乗員救助のため、「われ機械故障」などといって旗艦をだまし、あえて大きな軍律違反をした木村の行為は前代未聞のことである。 このとき木村艦長のもとで運用長をつとめた前田一郎(57期、のち中佐)は、戦後、「木村さんこそ連合艦隊司令長官になるべき資質をもった人です」と言った。 三 少将に進んだ木村は、わずかの期間、舞鶴警備隊司令官兼舞鶴海兵団長を勤めていたが、やがて昭和十八年二月、第三水雷戦隊司令官としてふたたび第一線にたつ。 ところがこの頃、木村は赤痢状の症状がひどく、ラバウルでしばらく入院した。げっそりと痩せて目ばかり異様に光っていた。しかし事態は逼迫しており、木村は無理をおして起き上がった。 東部ニューギニアのラエに進出する安達二十三中将指揮下の陸軍部隊の護衛部隊として、ラバウルを発ったのが二月二十八日で、将旗を「白雲」に掲げた。 三日にラエ入港の予定であったが、二日から多数の敵機の集中攻撃をうけ、ついに船団は全滅し、特務艦「野島」も沈没した。 「白雲」は船団の先頭に立って駆けめぐりながら対空戦闘を行なってきたが、空襲の終わりごろ、敵数機が高度約十メートルの超低空で機銃掃射しながら突っ込んできた。 木村が倒れたのはこのときである。 左腿と右肩にそれぞれ機銃弾が貫通し、三発目は右腹部で、弾丸が体内に残った。重傷である。 「白雲」は信号旗で、「司令官重傷」と、他の七隻の駆逐艦に知らせる。 このとき、痛みをこらえていた木村は、珍しく参謀をどなりつけた。 「死んだら死んだと言えばよい。重傷などと信号すれば、全軍の士気に影響する。まして陸軍の船団は不安に思うだろう。すぐとり消せっ」 やがて「白雲」のマストに信号旗があがる。 「ただ今の信号は誤りなり」 これは、木俣滋郎が戦後、木村から直接聞いた話である。 そのあと投下された爆弾が後部弾薬庫付近で爆発し、「白雲」はついに沈みはじめたので、木村たちは短艇で脱出し、「敷波」に収容された。 この戦さで七千名の陸兵のうち、三千名が死に、駆逐艦八隻のうち四隻が沈没するという一方的な敗北を喫した。 木村はやがて内地に帰り、療養につとめた。 昭和十八年六月、木村は傷癒えて、第一水雷戦隊司令官として大湊に碇泊中の旗艦「阿武隈」に乗り組み、キスカの撤収作戦に従うことになる。 五月二十九日、アッツ島守備隊指揮官山崎保代陸軍大佐(のち中将)以下二千六百の将兵は、悪戦苦闘の末、玉砕した。 次にキスカが危ない。海軍は潜水艦による撤収を戦後十五回も行なったが、ほとんど全部失敗した。危険で成功の可能性は少ないが、この際、水上部隊で一挙に撤収するしかない。 その総指揮官に、実戦の経験豊かで沈着、そして部下の統率に優れた木村が選ばれたのである。 さっそく猛訓練が実施された。 問題は北洋の天候である。すでに本格的な霧の季節に入っているが、霧は味方の隠密行動に利すると同時に、敵の情況がまったくわからないという不利もともなう。 霧中における航行訓練、補給訓練、それに無線通話、電探測距、咄嗟戦闘訓練、錨地進入、大発泛水、人員揚塔訓練等々、考えられるあらゆる場面を想定した血のにじむような訓練がつづけられた。 また「木曾」艦長川井巌大佐(47期)の発案で、駆逐艦に擬装煙突をつけることも行なわれた。二本煙突に一本仮装煙突をつけ、三本煙突の巡洋艦に見せて、敵の判断を誤らせるというのである。 そして「阿武隈」と「木曾」の三本煙突の真ん中の一本だけは白く塗り、米巡に見まちがわせる.といった工夫もなされた。 いま聞けば子供だましのようであるが、キスカのような霧の深いところでの作戦ならではのアイデアである。 第一回は七月一日に出発し、キスカの南西方五百浬まで近づいたが、天候不良で断念した。 次は七月十日、ふたたび幌筵を出発したが、十六日の朝になって霧の状況がどうも悪い。そのうえ敵の基地を出発した哨戒機が哨戒を開始したという。 このままあえて突っ込むか、反転するか。キスカまであとわずか百五十浬の地点である。 このとき、木村は言った。 「よし帰ろう。帰ればまた来ることができる」 「阿武隈」「木曾」はじめ駆逐艦十一隻が反転した。 当然、キスカ近くまで行って帰ってくるとは何事か、という非難が耳に入ってくる。木村はこんな声が耳に入ったか入らぬか、知らぬ顔で平然としている。 七月二十二日、今までにない理想的な霧の長期型の天気図が画かれた。さっそく出発。途中で、濃霧の中で隊列からはぐれる艦もあり、衝突事故もあったが、ともかく二十九日、隠密裡にキスカに入泊、訓練どおり一時間足らずの間に在島五千三百名を一兵残さず揚収し、離脱することに成功した。 あとで判明したことだが、二十六日にキスカ周辺のアメリカ艦隊は、レーダーが虚探知した幻の目標を認め、激しい砲撃を加えて弾丸をうちつくし、その補給のため五十日間つづけていたキスカ封鎖をといて不在であった。 その一瞬のすきに、木村の撤収部隊が突入したわけである。 木村は昭和二十年一月三十一日、天皇に拝謁を仰せつかり、キスカ撤収についての報告をする栄を得た。 四 昭和十九年十月二十三日、レイテ作戦が開始された。 二十四日、レイテ突入の本隊たる栗田部隊がシブヤン海で苦闘している頃、西村部隊は、スリガオ海峡から栗田部隊との連係もままならぬまま、勇敢にレイテ湾に突入し、「時雨」一艦を残して全滅した。 木村は、西村部隊の支援部隊である志摩艦隊に属する第一水雷戦隊司令官として、旗艦「阿武隈」にあってスリガオに向かっていたが、二十五日午後三時頃、海峡の入口付近で魚雷艇に襲撃され、「阿武隈」の左前部に魚雷が命中した。 艦首の一番砲塔員は全員戦死し、弾火薬庫内に有毒ガスが発生し、電信員、暗号員の大部分が戦死した。 艦首を沈め、今にも沈没しそうな有様で、速力も十ノット以下に落ちた。 「阿武隈」はそこに置き去りにされた。 志摩長官は残る「那智」「足柄」と駆逐艦四隻をひきいてなおも進むが、敵情がまったくつかめず、いったん反転して様子を見ようとする。 そのとき、西村部隊の生き残りの「最上」が、炎上しながら急速に近づき、「那智」と衝突、「那智」は艦首を大破し、ますます可能性を失い、反転した。 しばらく進むうち、全艦が目を瞳った。前方に「阿武隈」を発見したのである。故障した「阿武隈」は、とうに引き返してしまったものと思っていたが、「阿武隈」は重傷の身をひきずって、何とか本隊に追いすがろうと必死になって追って来たのである。 艦隊全員が木村の敢闘精神に感動した。 このあとレイテの陸上戦闘になるのだが、マニラ方面からレイテに対して九回も海上輸送作戦が行なわれた。そのうち、第二回と第四回は木村が指揮して成功したが、第三回の第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将、44期)は、オルモック湾で敵機の猛爆により全滅した。 これで生き残った駆逐艦を集めて第二水雷戦隊をつくり、その司令官に木村が発令された。日本海軍でただ一人の水雷戦隊司令官である。 昭和十九年十二月十五日、アメリカ軍は、ルソン島攻撃の足場としてミンドロ島サンホセに上陸して来た。ここは飛行場もあり、近くのマンガリン湾には水上機基地もある要衝である。 南西方面艦隊司令長官大川内伝七中将(37期)は、木村を指揮官とする水上挺身部隊のサンホセ突入作戦を命令した。 木村は将旗を「霞」に掲げ、十二月二十四日朝、「足柄」「大淀」はじめ駆逐艦八隻をひきいてカムラン湾を出撃した。 二十六日夕方、木村挺身隊に百機の戦闘機、十三機のB25、それに二十隻の魚雷艇が襲いかかって来た。 間もなく「足柄」「大淀」が傷つき、「榧」も敵機が衝突して後檣を倒されてしまう。午後九時過ぎ、「清霜」が魚雷艇の雷撃により炎上し、航行不能となった。木村は午後十一時、「清霜」をのぞく全艦を率いてなんとかサソホセに突入し、飛行場と物資集積所を砲撃し、さらにマンガリン湾の輸送船数隻を雷撃した。 約二十分の砲撃を終わって、艦隊は北上する。 このとき、木村は、 「これより『清霜』の救援に旗艦があたる。各艦は合同して避退せよ」と令した。 一般に、このような場合には、「清霜」救援は僚艦の「朝霜」艦長に命じ、司令官は翌朝の敵機攻撃を避けるため、残りの艦をまとめて戦場を離脱するのが普通である。 木村はそれをしないで、「足柄」艦長三浦達雄大佐(45期、のち少将)に全艦を指揮して離脱させた。そして司令官自身が、「霞」「朝霜」を指揮して「清霜」の遭難地点に向かった。全艦は木村のこの態度に深い感銘をおぼえた。 約一時間にわたって敵機や魚雷艇のいる中で、両艦は懸命に救助作業をつづけ、第二駆逐隊司令白石長義大佐(49期)、「清霜」艦長梶本韻中佐(56期)をはじめ二百五十八名の救出に成功した。 木村は二十八日、カムラン湾に帰投した。 高木惣吉少将(43期)は、木村を称えて次のように書いている。 「木村は自ら残って乗員を拾い上げた。艦長や幕僚は、敵の艦載機が目近に迫っているので気が気でない。ところが、木村司令官は双眼鏡で前後左右の水面を探し、あそこに一人いる、こっちに一人いる、と落ち着きはらって、いつまでたっても引き揚げ命令を出さない。 ついに敵機襲来の時刻になったが、まだあれを救え、これを救えと、なかなかみこしを上げない。 いよいよ浮いている乗員を救い終えると、これでよし、針路西、前進全速------。 信念の人に神助ありで、ついに敵磯にも見まわれずにすんだ」 木村は以後、陸上にあがり、最後は海軍兵学校防府分校長となり、防府海軍通信学校長を兼任して終戦を迎えた。 終戦後の木村はそのまま防府で、彼を慕う旧部下とともに製塩業をはじめ、昭和三十五年二月、この地で生涯をとじた。六十九歳であった。 キスカ撤退のことは、当時、関係者以外はほとんど知られていなかったが、これが世に知れるようになったのは、昭和三十二年に千早正隆(58期、中佐)が「太平洋海戦最大の奇蹟」として書いたことから俄然有名になった。 木村は無口だし、自分の功を誇るような人ではないので、家族の著すら少しも知らなかったという。 千早正隆は、「木村さんは、日本海軍の武将中の武将です」といって賞賛した。 (完) |
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